芥川賞作家で文化勲章受章者の田辺聖子さんが、6月6日午後1時28分、胆管炎のため神戸市内の病院で死去されました。
私は田辺聖子さんの、特に「カモカのおっちゃんシリーズ」のエッセイが大好きで、クスクス笑いながら読んだものです。
夢みる文学少女から作家に
自身の刊行書籍などを飾った壁面の前に立つ田辺聖子さん=2007年6月、大阪府東大阪市の田辺聖子文学館[/caption]
田辺聖子 プロフィール
1928年3月27日~2019年6月6日(91歳没)
大阪府大阪市生まれ
職業 小説家
旧制樟蔭女子専門学校卒
活動期間 1956年 – 2018年
ジャンル
恋愛小説・歴史小説・随筆・評伝
代表作
『感傷旅行』(1964年)
『姥ざかり』(1981年)
『ひねくれ一茶』(1993年)
『道頓堀の雨に別れて以来なり――川柳作家・岸本水府とその時代』(評伝、1998年)
主な受賞歴
大阪市民文芸賞(1956年)
芥川龍之介賞(1964年)
女流文学賞(1987年)
吉川英治文学賞(1993年)
菊池寛賞(1994年)
紫綬褒章(1995年)
泉鏡花文学賞(1998年)
読売文学賞(1999年)
蓮如賞(2003年)
朝日賞(2007年)
文化勲章(2008年)
デビュー作
『花狩』(1958年)
配偶者 川野純夫
田辺聖子さんは、1928年(昭和3年)3月27日、大阪市の写真館の長女として生まれます。
父は、当時流行のハイカラ文化を満喫した青年で、母は若いころから熱烈な文学少女だったといいます。
こんな両親の元で、田辺さんも夢見る文学少女として成長していきます。
旧制樟蔭女子専門学校国文科を卒業し、金物問屋の事務員として7年間働いた後、「大阪文学学校」に通いながら小説を書いたといいます。
1956年、「虹」で大阪市民文芸賞受賞。
58年に最初の単行本「花狩」を刊行し、64年、「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)」で芥川賞を受賞しました。
この時、センチメンタル・ジャーニィはちょっとした流行語になったそうです。
「カモカのおっちゃん」との運命の出会い
そしてその頃、田辺さんはカモカのおっちゃんこと、川野純夫さんと運命の出会いをします。
川野さんの前妻は、二度、直木賞候補となった作家の川野彰子さんで、田辺さんの文筆仲間だったといいます。
ところが、彰子さんは、1963年に急逝されてしまいます。
そして、彰子さんの死を悼んだ田辺さんが、神戸新聞に追悼文を書いたのをキッカケに、彰子さんの夫で神戸で医師をしていた川野純夫さんと知り合い、1966年に後妻として川野さんと結婚したのです。
田辺さんは38歳、川野さん42歳でした。
「カモカのおっちゃん」とはいつもおしゃべり
田辺さんは川野さんの四人の子どもたちを育てながら、作家活動を続けます。
川野さんは、「カモカのおっちゃん」として、しばしば田辺さんのエッセーに登場するようになります。
「カモカ」の由来は、ずっと昔に田辺さんの本で読んだ記憶ですが、「悪い子がいたら噛もか~」と子供を脅かす鬼かなにかが、祭りに出てくるとか、そういうことだったと思います。
川野さん、その鬼に似ていたのかな?
「カモカのおっちゃん」は、最初は架空の人物だったそうですが、イラストを担当した高橋孟さんが夫の川野純夫さんをモデルとして描いたことから、川野さんになっていったということです。
田辺さんと川野さんは本当に気があって、いつもたくさんおしゃべりしていたそうです。
病床でも五七五で励ます温かな人
1976年、川野さんが脳梗塞に倒れた後も、お二人は仲の良いご夫婦だったのですが、2001年、川野さんが今度は末期の舌癌に。
ある時、田辺さんがベットの脇で泣いていると、川野さんが、「かわいそに わしはあんたの 味方やで」と、五七五で慰めてくれたそうです。
そして、2002年1月14日に川野純夫さんは77歳で旅立ちます。
川野さんのことを、
「人間がこんなにも優しくなれるものかと思った。太陽の恵み、地熱の温かさ。そばにいるだけで温かくなる人でした」。
と語っていた田辺さん。
もう、カモカのおっちゃんに会えたでしょうか?
葬儀は近親者で済ませ、喪主は弟の聰(あきら)氏だそうです。
後日、東京と大阪でお別れの会を開く予定とか。
ご冥福をお祈りいたします。
\田辺さんの本はこちらでお探しください。/