花見の季節到来です。
中国人観光客の感心は、モノからコトに移ったと言われています。
そのコトのひとつが花見です。
日本の桜を見に中国から多くの観光客が日本を訪れています。
なぜ中国人が花見を?
そう思う人も多いのでは?
私は、ふと、詩人・李白を思い浮かべました。
確か中国の古の詩人も花見をしていたような…。
早速、調べてみました。
大詩人・李白の花見
唐の時代の李白(りはく)(701~762)は、「春夜従弟(しゅんやじゅうてい)と桃花(とうか)の園(その)に宴(えん)するの序(じょ)」という文を残しています。
『古文真宝(こぶんしんぽう)』という書物に納められた文です。
そして、その様子を絵にしたのが、「桃李園図 」です。
明(みん)の時代の著名な画家、仇英(きゅうえい)の作です。
いつ日本に渡って来たのかはわかりませんが、江戸(えど)時代から京都・知恩院(ちおんいん)にて大切に保存されて来ました。
李白といとこたちが、盃で酒を飲みながら、花見を楽しんでいる様子を描いたものです。
中国では古来、花見は梅と桃李
ただ、見ている花は桜ではなく、桃と李です。
桃はよく知られる桃、「桃」とは、バラ科モモ属。
李とはスモモ、バラ科サクラ属。
というわけで、桃と李は異なった植物ですが、中国では桃と李は兄弟の象徴でもあったようです。
中国人は、古来から梅、桃、李を好んで観賞して来ました。
そのためか、中国における野生の桜は60種類を超え、日本の26種をはるかに上回っているそうですが、桜の実、つまりサクランボの開発には力を入れても花の新種開発には力を注がなかったようです。
日本でも梅の花見が最初
日本においても中国の影響で、花見の歴史は梅から始まったようです。
日本の花見は奈良時代の貴族の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞され、平安時代に桜に代わってきた。それは歌にも表れており、『万葉集』には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられる。これが10世紀初期の『古今和歌集』では、桜が70首に対し梅が18首と逆転している。「花」が桜の別称として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からである。ーーWikipedia
記録に残る花見の最初は、『日本後紀』にある、嵯峨天皇が812年3月28日(弘仁3年2月12日)に神泉苑にて催した「花宴の節(せち)」。
日付からすると、この花見は桜。
831年(天長8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられ、その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれています。
『作庭記』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代において桜は庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山もこの頃に誕生したと考えられているそうです。
鎌倉時代には、武士にも花見の風習は広がったようです。
吉田兼好・著『徒然草』第137段には、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いが記されています。
江戸時代になると花見は、庶民にも広がって行きました。
桜の品種改良も江戸時代に盛んに行なわれました。
花を愛でながら宴というDNA
というわけで、花を愛でながら、花の下で宴を催すという花見のルーツは中国にありました。
中国人にとって梅や桃李の花見は新鮮ではなく、桜こそが進化して新鮮な花見なのでしょう。
日本の文化には、花見と同様の進化形態が見られます。
茶道もルーツは中国です。
今話題の「元号」もルーツは中国。
禅も、弘法大師空海が伝えた真言密教も然り。
中国から日本に伝わり独自の進化を遂げています。
西洋人には、花を愛でることはしても花の下で宴会をするという発想はありまえん。
中国人観光客が花見のため日本に押し寄せるのも、花見の宴会のDNAが古来から刻まれているからかもしれません。