編集者として永年、日本語に携わって来たので、時々、テレビのニュース等の日本語が気になる。
つい先日も、女子アナがニュースで読み上げた日本語が気になった。
好事魔多し。
良いことには邪魔が入りやすい、絶好調の時こそ用心しなさいというような意味だが、問題は読み方。
この諺(ことわざ)を、あなたはどう読むだろうか。
「好事魔多し」は何て読む?
アナウンサーは、
「こうじ ま おおし」
と読んだのだ。
私はすぐさま、「違うだろ、こうずだろ?」
と少々イヤな気分に襲われた。
しかし、アナウンサーは自信たっぷりに、区切るところも強調して読み上げていたから、
もしかしたら、私の記憶が歪んだのか、読み方が変わったのかと思い、ググった。
すると、「こうじ」と表記されているものがほとんどで、中には「こうず」は誤りという記述もあり、「そんなバカな」と驚いた。
好事は「こうず」と読み、間違いやすい用語のひとつとして学生時代に覚えたはずだったからだ。
妻に「好事魔多し」と書いたメモを見せて、「これ何と読む?」と聞いてみた。
彼女も「こうず」と読んだ。
「そうだよな」
と私は、嬉しくなった。
「こうじ」と「こうず」の違いは?
ネット上では、「こうじ」は「良いこと」で、「こうず」は好きなことだと解釈している書込が多い。
風流を好む人、珍しもの好き、趣味人といった意味の、好事家は「こうずか」と読み、だから「こうず」をそう解釈しているようだ。
しかし、昔はどちらも「こうず」と読み、そしてその意味は上記の2つを含んだはずだ。
ネットで検索したら、こんな記述があった。
2016年7月21日の『くにまるジャパン』で、アナウンサーが「好事魔多し」を「こうじ・ま・おおし」と読んだのに対して野村邦丸アナウンサーが「こうず・ま・おおし」と執拗に訂正した。
調べてみると野村アナは私と同じ年の生まれ。
私と同じように、1986年生まれの八木アナが「こうじ」と読むのが許せなかったのだろう。
いつ、「こうず」を「こうじ」と読むようになったのだろうか。
明治の文豪の作品には「こうずま」とルビ
たとえば、夏目漱石の「一夜」には、こんな件(くだり)がる。
「南無三、好事魔《こうずま》多し」と髯ある人が軽《かろ》く膝頭を打つ。
夢野久作の「少女地獄」には、
この辺で止めて置けば万事が天衣無縫で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事魔多し、とでも言おうか。
という文章があり、これもまた「こうず」とルビがふられている。
もっと探せばさらに見つかるはずである。
漢字は中国の時代によって読み方が異なり、それが日本に入って来たことで、音に違いが生じた。
たてば「事」は、「ジ」と読むのは呉の時代の音(呉音)、「ズ」は唐の時代の音(唐音)、「シ」は漢の時代の音(漢音)である。
行脚を「あんぎゃ」と読むのも唐音。利益を「りやく」と読むのも同じ。
「六道輪廻」の六道を元々は「りくどう」と読んでいたのは、漢音。「ろく」は唐音。東京の「六義園」を「りくぎえん」と読むのも同じ理由からだ。
つまり、好事を「こうじ」と読むのは呉音、「こうず」は唐音。
「こうじ」と読もうが「こうず」と読もうが、意味は変わらない。
好事はずっと唐音の「こうず」だったはずなのだ。
それなのに、「好事魔多し」は「こうじ」に変わりで、「好事家」は昔の「こうず」のまま。
そのため混乱が生じている。
「こうじ」に変えるなら、「好事家」も「こうじか」に変えるべきだと思うのだが。
言葉は世に連れ…だが
言葉は世に連れ変化してゆくものだ。
一所懸命はいつのまにやら一生懸命でもよくなった。
小学生のある日、担任の先生が「輿論」は「世論」に変わって、「せろん」と読むことになったと教えてくれたことをよく覚えている。
ところが今や多くの人たちが、「よろん」と言っている。
少年時代、一所懸命に覚えた日本語は何だったんだろうと虚しくもなる。
手術は「しゅじゅつ」だと思っていたら、アナウンサーらは、「しゅずつ」と発音し、それが正しいらしい。
あなややこしや、日本語。